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長崎市内観光コース

坂の街長崎めぐり(B)

時代のロマンを感じる坂の街、長崎 B

四方を山と海に囲まれ、なおかつ山が海岸線ぎりぎりにまで近づいている長崎では平地が極端に少なく、自然と山の斜面に建物が建てられるようになりました。そのため長崎は坂の街とも呼ばれています。また、観光都市として様々な顔をもつ長崎は、その魅力や見どころの多さから国内外問わず多くの観光客を惹きつけています。長崎観光で行くべき箇所を余すことなく行程に盛り込んだ長崎観光決定版といえるツアーです。

◎コース説明

長崎市内
原爆落下中心地
平和公園
如己堂
浦上天主堂
原爆資料館
一本足鳥居
坂本町国際墓地
日本二十六聖人殉教地
出島商館跡
オランダ坂
孔子廟
大浦天主堂
グラバー園
崇福寺
眼鏡橋
福済寺
長崎市内

4時間コース

普通車 21,040円(税込)
ジャンボ(定員9名) 31,040円(税込)
※通行料、拝観料、入場料、駐車場利用料等は含まれておりません。

駅(JR長崎駅)・ホテルでお迎え

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長崎市内

長崎市内の有名スポット、名所を中心にご案内。
魅力的な街、長崎を満喫。
(※画像は観光イメージです。プラン・時期によって内容は変わります。)
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原爆落下中心地(車窓)

B29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂しました。現在、その地には落下中心地標柱として昭和43年(1968)に建立された黒御影石の碑が立てられており、園内には被爆当時の地層も残されていますが、そこには原爆によって壊された家の瓦やレンガ、3000度の熱で焼けたガラスなどが今も大量に埋没しています。公園の周囲にも約500本の桜の木が植えられ、桜の季節は花見の地、また日頃から緑に囲まれた憩いの空間として親しまれています。
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平和公園

原爆落下中心地の北側に造られた、世界平和を願う長崎のピーススポット。階段を上ると、被爆直後に水を求めて亡くなった犠牲者に捧げる平和の泉がある。公園の奥には長崎県出身の彫刻家「故北村西望が手掛けた高さ9.7M、重さ30トンの平和記念像がある。平和記念像は天に伸びる右手は原爆の脅威・水平に伸ばした左手は世界平和を表す・閉じた瞼は犠牲者の冥福を祈っている。毎年8月9日の原爆の日には、この像の前で平和祈念式典にて全世界に対して、平和宣言が読み上げられる。
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如己堂(車窓)

如己堂は、永井隆博士の病室兼書斎です。原爆で無一文となった浦上の人々が博士のために建てたこの建物を博士は"己の如く隣人を愛せよ"という意味から"如己堂(にょこどう)"と名付けました。永井隆博士が記した著書のテーマは原爆、人間、愛、平和……いずれも博士自らの体験をもって後世に伝えておきたいと願ったメッセージ性に富んだ作品ばかりで、なかでも『長崎の鐘』『この子を残して』は名高い作品です。現在この如己堂は、多くの人に受け継がれている永井隆博士の恒久平和と隣人愛の精神の象徴となっています。
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浦上天主堂

キリシタン弾圧に耐え、信仰の自由を得た信者によって、明治28年(1895)から30年間の歳月をかけ、大正14年(1925)に完成した教会。その美しさが「東洋ー」とも言われていたが、原爆によって全壊した。現在の浦上天主堂は昭和34年(1959)再建されたものに、昭和55年(1980)に内外装に加え当時の赤レンガ造りの浦上天主堂に復元された。大聖堂の中には24枚の美しいステンドグラスが設置されている。
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原爆資料館

広島原爆投下から3日後、長崎市内の浦上地域上空で原子爆弾が炸裂し約15万人の人々が命を落としました。この資料館では被爆の惨状をはじめ原爆が投下されるに至った経過、被爆から現在までの長崎の復興の様子、核兵器開発の歴史、そして核兵器のない平和希求までがストーリーを持たせわかりやすく展示されています。
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一本足鳥居(車窓)

明治元年創立の山王神社は、爆心地から南東約900mの場所の高台にあり、原爆の被害を受けました。社殿は跡形もなく崩れましたが、昭和25年(1950)に再建され今に至ります。山王神社の参道には、一本柱鳥居と呼ばれ親しまれている鳥居がありますがもともとは4つあった鳥居のうちこの鳥居だけが片方の柱を残し今も同じ場所に立っているのです。
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坂本町国際墓地

長崎では一番新しい国際墓地です。ここには長崎に長い間に渡って滞在した外国人夫婦や子どもなど家族が多く眠り、落ち着いた雰囲気が感じられます。電車道から向かって右手が最初にできた坂本国際墓地で、入口には自らも原爆の後遺症に苦しみながらも被爆者の救護に力を注ぎ、全世界に平和を訴え続けた敬虔なクリスチャンである永井隆博士夫妻の墓があります。
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日本二十六聖人殉教地

6人の外国人宣教師と20人の日本人信徒、二十六聖人が殉教した地・西坂の丘に建つ資料館。建物は聖フィリッポ西坂教会とともに建築家・今井兼次氏によるものです。展示室内には、ザビエルによる日本でのキリスト教布教から、弾圧の時代、そしてその中での二十六聖人の殉教、潜伏キリシタンの祈りから明治時代の信仰の復活までの歴史が、多数の資料をつうじて紹介されています。
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出島商館跡(車窓)

出島は来舶ポルトガル人を居住させるために海中を埋築し、寛永13年(1636)完成した。寛永14年島原の乱が起こり同16年(1639)幕府はポルトガル人を渡航禁止にした。これにより出島は空家となった。そこで寛永18年(1641)平戸のオランダ商館をここに移した。以来、安政の開国まで約220年間、出島は阿蘭陀屋敷(おらんだやしき)と呼ばれた。出島のオランダ商館では、この地を通じて日本とヨーロッパを結ぶ経済・文化の交流がおこなわれ、日本の近代化に果たした功績は大きい。
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オランダ坂(車窓)

出島に住むオランダ人の影響か、開国後も長崎の人々は東洋人以外を「オランダさん」と呼んでいた為、当時「オランダさんが通る坂」という意味で居留地にある坂はすべてオランダ坂と呼んでいたと考えられています。現在は、主に活水学院下の坂、活水坂、誠孝院(じょうこういん)前の坂がオランダ坂と呼ばれています。
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孔子廟

元来、孔子廟とは、孔子の遺品を納め祀ったのが始まりで、明治26年(1893)中国清朝政府と華僑によって建造されました。琉璃瓦・青白石製欄干・龍紋様の御道石・孔子像、72賢人石像などはすべて中国から取り寄せられたものです。併設の中国歴代博物館は、2階には北京故宮博物院提供の宮廷文化財を、3階には中国歴史博物館提供の出土文化財を一堂に展覧しています。
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大浦天主堂

幕末の開国にともなって造成された長崎居留地の中に、在留外国人のために建設した中世ヨーロッパ建築を代表するゴシック調の国内現存最古の教会。聖堂内を飾るステンドグラスには、約100年前のものもある。直前に列聖されたばかりの日本二十六聖人に捧げられた教会で、正面は殉教の地である西坂に向けて建てられている。1933年に国宝となるが原爆で被害を受け、1953年、日本最古の現存教会建築として国宝に再度指定された。
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グラバー園

「グラバー園」は、国指定重要文化財の旧グラバー住宅・旧リンガー住宅・旧オルト住宅を核に、市内に点在していた6つの明治期の洋館を移築復元したものです。長崎港、稲佐山をはじめとする緑したたる山々、人々の息づかいが感じられる街並み。偉人たちも魅せられた絶景が広がるとびきりのビュースポットでもあります。
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崇福寺

市内鍛冶屋町にあり、竜宮門を思わせる三門や珍異奇巧を極めている第一峰門があります。殿堂内の仏像仏具類は、いずれも中国人名匠の手によるもので、明朝末期文化の縮図といえるものです。第一峰門と大雄宝殿は国宝に指定され、その他にも国指定重要文化財5、県指定有形文化財4、市指定有形文化財10をもつ文化財の宝庫です。長崎の唐寺の特色は媽祖堂をもつことで、媽祖は海の神様であり、当時、唐船主たちが航海安全を祈願してまつったものです。
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眼鏡橋

寛永11年(1634)、興福寺の黙子如定禅師が架設したこの眼鏡橋は、日本初のアーチ式石橋として有名です。川面に映った影が双円を描き、「メガネ」に見えることから、この名前がついたと言われ、『日本橋』『錦帯橋』と並び日本三名橋に数えられます。
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福済寺

福済寺は、長崎の唐寺のなかでも大きな寺院であったといわれ、戦前には現在の国宝にあたる特別保護建築物に指定されていました。しかし、第二次大戦中に原爆で焼失してしまい、現在では原爆被災者と戦没者の冥福を祈って建てられた「万国霊廟長崎観音」が静かに長崎の街を見渡しています。興福寺、聖福寺、崇福寺の「三福寺」と併せて「長崎四福寺」とよばれる黄檗宗の由緒あるお寺です。
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